毎日にちょっとだけ豊かな時間を

「寄付」が必ずしも有効ではないワケ

こんにちは、そらたねです。

先日、年配の女性が「そらのたね」を不思議に思ったらしく、1階で仕事をしていたダンナに話しかけてきたらしいのです。

2階にいた私は、「とうとう新規のお客様来たのか~!?」と、ちょっとウキウキして、1階へ降りていきました。

女性はすでに帰ってしまっていたので、ダンナに「どうしたの?」と尋ねると

「中古の洋服を売るなら、寄付すれば良いじゃないか」とおっしゃっていたそうです。

きっと、そういうご意見も出るだろうなと予想はしていました。でも、私は一概に「寄付」が良いとは思いません。

「寄付」されたら、確かに「寄付」された人は「タダ」で洋服を手に入れることは出来ます。
だけれど、「寄付」を受けられる人というのは、実はそんなに多くはないのでは?

この国の多くの人は、なんとなくご飯は食べていけている。洋服だって、今は安く売っているお店が沢山あるから、たまになら買うことも出来る。他国の貧困に比べれば、明らかに、恵まれています。

それなのに、「幸福度」が低いのは、「物が足りていないから」ではないんだと思うんです。
「幸福度」の低さについては、日本人ならではの控えめで、干渉し過ぎずというような性格も関係していて、そこから生まれる「つながり」の希薄さからくるものなのでしょう。

「そらのたね」を始めたきっかけのおじいちゃんだって(詳しくはお店のプロフィールをご覧ください!)、誰かに話が出来たり、相談が出来る相手がいたら、「早く(あの世から)お迎えが来ればよいのに」なんて思わない可能性が高い。

「寄付」は物の不足は埋まるけれど、心のすき間は、この日本では埋まらない。
もっと貧困国の、洋服も買えない、教育も受けられない人たちとは、ちょっと状況が違うと思うのです。

生活を維持する事が難しい場合、日本には生活保護や、フードバンク、その他援助があります。(それが十分に行き届いているかは、ちょっと疑問ですけど)

そうではなく、生活はできている。だけれど、何か埋まらない気持ちがあったり、自分の時間を取れなかったり。

そんなものが少しでも埋められたらというのが、この「そらのたね」を始めた目的です。

私もこの全く縁もゆかりもない土地に引っ越してきて、知り合いもいません。
友達も元々、あまりいません。

この「そらのたね」は私自身のための場所なんだろうな、と、このブログを書いていて気が付きました。

「そらのたね」を始めてから、これまであいさつ程度だったお隣さんとも、更年期やら夫婦げんかやら(笑)の話を交わせるようになりました。

塾の保護者様とも「子どもの話題」以外のことを話せるようになった。

すごく、ありがたいです。まだまだ、保護者様に支えられっぱなしの「そらのたね」ですが、街の人にも知っていただき、「今日は、そらのたねでコーヒー飲んで、本でも読むか」って場所になれるよう、頑張ります。